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45庄野~49土山

[ 2022 07 18~ ]

■45[庄野 白雨](三重県鈴鹿市)



[ 庄野 白雨 ]


激しく降る雨の中、筵をかぶり急いで坂を上る旅人と二人の人足が担ぐ駕籠、反対方向へ雨脚に向かって番傘を差し向ける旅人が描かれています。
背景には、風にたなびく薄墨の竹藪の下にひっそりと家並みが佇んでいます。



[ 庄野 鈴鹿川堤防上の国道1号(2022 07 18) ]


[庄野 白雨]では小高いところから農家の家並みが見えていますが、庄野宿周辺の旧・東海道は平地を通り、宿場は鈴鹿川沿いの平坦な自然堤防の微高地上にあるため、農家を見下ろすような小高いところは見当たりません。
また、鈴鹿川に堤防があったとしても、近くにある江戸時代に造られた女人堤防(地面から1mほどの高さ)と同程度と思われ、屋根を見下ろす高さもなく急な坂道もありません。
現在の鈴鹿川は庄野宿に比べ4~5mは高い堤防があるので周りが良く見えそうですが、堤防の天端に国道1号が走っているため騒音防止の遮音壁や街路樹があり、残念ながら周囲を見渡せるところはほとんどありません。



[ 日永追分 東海道と伊勢街道の分岐(2022 07 17) ]


旧・東海道は大名行列などの公的な旅行のほか、お伊勢参りなどの旅人も使っていましたが、江戸から伊勢へ行くルートは四日市まで東海道を通り、四日市の日永追分からは伊勢街道(参宮街道とも)を通り津市を経て伊勢へ向かいます。
大阪・京都方面から伊勢に向かうルートは、関宿まで東海道を使い伊勢別街道といわれる道を通り津市内で伊勢街道と合流し、伊勢へ向かっていました。
このため、石薬師宿、庄野宿、亀山宿の三つの宿は、江戸時代最大の観光地である伊勢参りの旅行者が通らない宿場でした。
亀山は城下町でもあったのでそれなりの街が形成されましたが、石薬師宿と庄野宿は東海道の宿でありながら、他の街道の宿よりも寂しい宿だったのではないでしょうか。
太平洋戦争後、伊勢街道の宿場町だった神戸町を中心とする鈴鹿市は、本田技研、鐘紡、旭化成など大企業の工場が立地し、近鉄鈴鹿線も延伸され成長しましたが、石薬師宿と庄野宿に大きな変化はありませんでした。



[ 庄野 本陣跡(2022 07 18)]


庄野宿も石薬師宿と同様に、国道1号のバイパスが造られたため昔の道幅のまま家屋が立ち並んでいます。
古い建物もわずかに残っていますが、建替えられた建物は、建て方がまちまちなので建物の面がきれいに揃うことはありません。
食料品など生活に必要な買い物に車が必要なため、車庫を設けられるように建替えるのは必要不可欠で自然な流れなので、庄野宿の街並みはこれからも変化していきます。
宿場内にお店があったとしても、近くの鈴鹿市街地に大きなショッピングモールがあるので、存続できるのは時間の問題でしょう。
このような状況は、隣の石薬師宿も同じです。


■46[亀山 雪晴](三重県亀山市)



[ 亀山 雪晴 ]


雪をかぶった松並木のある白い斜面を、旅の一行が亀山城の石垣を目指すように上っていきます。
斜面の下には亀山の家並が白い雪をかぶり、青空と斜面の間は朝焼けの薄赤い光が差し込んでいます。



[ 亀山 京口(2022 09 30)]


[亀山 雪晴]に描かれた京口は、1913年に京口橋が架けられたため坂を登ることなく、城下町に入れるようになりました。
沢筋と京口門はかなりの高低差がありますが、現在は下から見上げても繁茂する樹木に邪魔されて地形がどのようになっているかすらわかりません。
亀山城は段丘上面に造られた城で、武家屋敷も城を囲むように高台にまとめられていました。
明治の初めに出された廃城令に従ってほとんどの建物が取り壊されましたが、多門櫓のみが残り修復作業を経て公開されています。
現在は埋立てられて痕跡すらありませんが、この段丘上面にも堀がめぐらされていたので、旧・東海道は堀に沿うような形で曲がっていました。
現在の町の姿からは、旧・東海道が曲がっている理由は見当がつきません。



[ 東海道(赤点線)と亀山城外堀(水色)(2022 09 30) ]


亀山の市街地はお城のある段丘上面に広がってきましたが、JR関西本線と国道1号は鈴鹿川に近い平地を通っているため、川沿いの平地にもいわゆるロードサイド店が立地しています。
段丘上面と川沿いの平地は20~30mの高低差があり、段丘崖は勾配がきついので行き来はとても不便です。
川沿いの平地に進出した商業施設の中には、段丘上面からの集客のために歩行者用通路をわざわざ設けている店舗もあります。



[ 亀山 河岸段丘(2022 09 30 ) ]


亀山駅前では再開発事業が進められ、地上15階のビルが造られ公共施設、商業施設、住宅が入る計画ですが、駅前に行くためには川沿いの平地に下らなければなりません。
お年寄りが立ち寄るのは難しそうです。


■47[関 本陣早立](三重県亀山市)



[ 関 本陣早立 ]


大きな家紋が染めつけられた幕の下がる本陣の前で、駕籠かきたちが出立の用意をしつつ控えています。
その横にある門から侍が出ようとしているところを、下侍が提灯を持ち待ち構えています。
大名が宿泊していることを示す立て札が画面左に直立しています。



[ 関 伊藤本陣跡(2022 09 30) ]


[関 本陣早立]に描かれたといわれている伊藤本陣(現在は電気工事店)は、街道に面した部分のみですが現存し往時の面影を残しています。
もう一つの本陣である川北本陣は、跡地であることを示す石柱があるだけで、当時の建物は残っていません。
近くにある旅籠玉屋歴史資料館は内部を見ることができる建物で、二階には使われていた食器・食膳や、寝室となった状態が展示されています。



[ 関 旅籠玉屋から(2022 09 30) ]


関宿は1982年に伝統的建造物群保存地区に決定され、1984年には重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、旧・東海道沿いの街並み約1.8kmに江戸時代から明治時代に建てられた古い町家200軒あまりが残っています。
伝統的建造物群保存地区は、市町村の条例により保存のため現状変更の規制が設けられているので、居住する人の理解が欠かせません。
関宿を訪れた際は2件の改築現場がありましたが、外観は極力手を付けず内部を大きく作り変える工事が行われていました。
外観を残しつつの工事は新築するよりもコストがかかるので、亀山市では「伝統的建造物を対象として、その外観を維持又復原する事業 修理に要する経費の8/10以内で800万円限度」の補助制度が設けられています。



[ 関 改築中の家(2022 10 01) ]


このほかに、都市計画道路の廃止も行われました。
関宿を南北に横断する都市計計画道路3・5・21木崎新所線の一部が、道路築造により重要伝統的建造物群保存地区の文化財的価値に影響を与えると予測されるため、2022年6月1日に廃止されました。
1972年に決定された幅12mの計画道路でしたが、道路が造られると関宿を分断することになり影響が大きいと考えられたようです。
また、計画当時に比べ国道1号バイパスなど周辺の道路整備が進み、自動車交通の流れも変わったようです。
廃止された都市計画道路があったところは、伝統的建造物の外観を汲んだ建物があり、素人が見ても道路ができると影響がありそうなところです。



[ 関 廃止された都市計画道路の交差予定地(2022 10 01) ]


関宿を横断する都市計画道路はもう一つあり、伝統的建造物群保存地区の東端にある東の追分の鳥居付近を横断する3・4・22四日市関線バイパスですが、伝統的建造物群保存地区の東側はほとんどが普通の住宅なので、道路ができても大きな影響はないかもしれません。


■48[坂之下 筆捨嶺](三重県亀山市)



[ 坂之下 筆捨嶺 ]


左手にある山は、狩野元信が美しすぎて描けないと筆を捨てたといわれる岩根山です。
見晴らしのいい茶屋から岩根山を眺める人、桟敷の上でくつろぐ旅人、柴を担がせた馬を引く親子が筆捨山と対照的に一隅の狭い範囲に描かれています。



[ 坂之下 国道1号から見る筆捨山(2022 10 01) ]


現在の筆捨山は樹木が全面を覆い、奇岩や流れ落ちる滝を見ることはできません。
また、筆捨山が見えるポイントは、国道1号が通り谷側に民家が立ち並んでいるので、山の中腹から裾野にかけては全く見えません。
戦前までのように山の木を燃料にすることがなくなり、最近の日本は森林蓄積(山にある材木の量)が増える一方で、大きな樹木に覆われ山容すら不明瞭です。
さらに国道1号はこの付近だけが2車線の道路ですが鈴鹿峠を含め前後は4車線で開通しているので、4車線の都市計画道路国道1号関バイパスが造られると、筆捨山の前に高架橋が立ちはだかりますます見えなくなってしまいます。
ひとつ東京寄りの関宿は、無電柱化が行われ、都市計画道路が一部廃止され、伝統的建造物群保存地区条例により建物の保全措置が講じられるなど、往時に近い姿が残されるのに比べ、[阪之下 筆捨嶺]の構図は二度と見られない状況となりそうです。



[ 坂之下 国道1号関バイパスの計画(2022 10 01) ]


阪之下の宿場は、筆捨山が見えるポイントから鈴鹿峠方面へ3kmほど上った比較的平地の多いところにあり、本陣や脇本陣跡に石碑が立っていますが、東海道が制定された時の阪之下宿は、さらに西へ1km上った沢沿いの斜面にありました。
最初の阪之下宿は、1650年9月の大洪水により宿場は壊滅し移転せざるを得なくなったのです。
移転前の宿場は古町と言われ、旧・東海道は東海道自然歩道になっている勾配のきつくい道で、現在は土砂災害警戒区域(土石流)に指定されています。
旧・東海道の脇には、建物の基礎だった石垣がところどころに残っていいますが、杉が植林されているので宿場跡の全体を見渡すことができません。



[ 坂之下 古町に残る建物の基礎(2022 10 01) ]


この先の急な道を登り鈴鹿峠を越えると滋賀県に入ります。


■49[土山 春之雨](滋賀県甲賀市)



[ 土山 春之雨 ]


雨の中、田村川に架かる橋の上を合羽を身にまとった大名行列が渡り始めています。
川の流れは激しく、あふれんばかりの水量があり、木々の奥に佇む建物は田村神社と言われています。



[ 土山 田村川(2022 10 01)]


鈴鹿峠側から田村神社へ入る手前の旧・東海道は、幅が狭く大きな工場に挟まれたところもあり、往時の雰囲気は全くありません。
田畑の中の道を少し進むと、神社の横を流れる田村川を渡る海道橋が現われます。
広重の絵に描かれている橋は1775年に架けられた幅4.1m、長さ37.3mの板橋でしたが、昭和初期に台風の洪水で流され2005年7月に往時の橋を復元した海道橋が架けられました。
板橋が架けられる前は、田村川の手前を左に曲がり国道1号の下流側を徒歩で渡っていました。
現在の田村川は、渓流のような流れではなく河原のある立派な川で、海道橋も50mほどの長さがあります。
橋の下に小さなダムのような落差工があり、橋を渡っている間は水音が絶え間なく聞こえています。
普段は穏やかな表情の川ですが、大雨が降ったときには[土山 春之雨]のようにうねりりのある川面になるのかもしれません。



[ 土山 田村神社(2022 10 01) ]


田村神社は広い林の中にあり、橋の上から神社の社は全く見えませんが、少し行くと二の鳥居が見え神社らしくなってきます。
境内には川から水を引き入れた「禊場」があり、田村川へ下りていく「一願成就の清め道」があります。
昔から神社と川は一体的に時を過ごしてきたようです。
土山宿は田村神社より京都寄りにあり、ほぼ隙間なく家屋が連担しています。
いくつかある本陣跡には、往時の建物ではありませんが周囲の景観に配慮したいい感じの建物が立っています。
関宿のような伝統的建造物群保存地区ではありませんが、土山宿の旧・東海道沿道はこのような建物が多くあり、落ち着いて歩ける道になっています。



[ 土山 土山本陣跡(2022 10 01) ]


田村川は旧・東海道の南側を小さな蛇行を繰返しながら流れ、3kmほど西で野洲川に合流します。
そこには歌声橋という旧・東海道の人道橋がかかっていますが、なぜか屋根のある変わった橋です。
この辺りはところどころに茶畑が広がり、旧・東海道沿いで製茶販売しているお店もありました。




<参考資料>